2024年01月17日09:05
阪神淡路大震災≫
カテゴリー │三松幼稚園
1995年1月17日午前5時46分
「阪神淡路大震災」がありました。
6時に起床してテレビを見た時の衝撃は今でも忘れられません。
1週間後、炊き出し機材・食料・衣類を積んだトラックで父と向かった。
ニュースで見たままの道路が折れ、建物が倒壊、一面焼け野原のような街、
長田区で5日間、ただ言われるがままに炊き出しや、物資を各避難所へ運んだ。
当時15歳だった私は、自身の無力さを感じた。
でも必死だった。
あれあら今日で「29年」
昨年、家族で神戸へ行った時に長田区を通った。
あの焼け野原だった場所は、今はビルや商業施設がひしめき合っていた。
被災者のチカラを改めて感じた瞬間だった。
今は「能登半島地震」で多くの方がお亡くなりになった。
また、未だに援助が来ない地域もある。
助けに行きたい気持ちを抑え、今はおかれた場所で「普通の生活」をすることです。
そこで経済を回すことも立派な支援だと思います。
今一度、家族で「防災」について話し合う機会を設けてください。
もっと言えば、「生きる(死生観)」ことも。
今朝、西に向かって手を合わせました。
園長のつぶやきでした。
今週末の21日日曜日 13:30~15:30
@遠鉄デパートソラモ周辺
息子が所属する、ボーイスカウト浜松12団で募金活動を行います。
近くに寄るようであれば足を運んでください。
「阪神淡路大震災」がありました。
6時に起床してテレビを見た時の衝撃は今でも忘れられません。
1週間後、炊き出し機材・食料・衣類を積んだトラックで父と向かった。
ニュースで見たままの道路が折れ、建物が倒壊、一面焼け野原のような街、
長田区で5日間、ただ言われるがままに炊き出しや、物資を各避難所へ運んだ。
当時15歳だった私は、自身の無力さを感じた。
でも必死だった。
あれあら今日で「29年」
昨年、家族で神戸へ行った時に長田区を通った。
あの焼け野原だった場所は、今はビルや商業施設がひしめき合っていた。
被災者のチカラを改めて感じた瞬間だった。
今は「能登半島地震」で多くの方がお亡くなりになった。
また、未だに援助が来ない地域もある。
助けに行きたい気持ちを抑え、今はおかれた場所で「普通の生活」をすることです。
そこで経済を回すことも立派な支援だと思います。
今一度、家族で「防災」について話し合う機会を設けてください。
もっと言えば、「生きる(死生観)」ことも。
今朝、西に向かって手を合わせました。
園長のつぶやきでした。
今週末の21日日曜日 13:30~15:30
@遠鉄デパートソラモ周辺
息子が所属する、ボーイスカウト浜松12団で募金活動を行います。
近くに寄るようであれば足を運んでください。